ふるさと秘話 No.90
岐阜連隊での新兵日記
エッセイスト 道下 淳
物置を整理していたら、軍隊時代の日記帳が出てきた。30年ほど前に、どこにかたづけたか、分からなくなったものである。ポケットに入る手帳型で、「昭和19年甲申(きのえさる)略暦」なども付けられている。軍隊では上官の目を避けて、書いていたものである。もし見られた場合を考え、批判的なことは書かなかった。読んでみて、忘れていた出来ごとが数多くあった。そこで当時を思い出しながら、岐阜連隊(中部4部隊)時代の1ヵ月間の新兵生活ぶりを紹介する。
当時愛知県春日井市にいた筆者に、昭和19年9月22日教育召集令状が来たと、高山市の実家から電報が届いた。現役兵の召集年齢は21歳からであるが、太平洋戦争の戦線拡大と各地での苦戦やサイパン島など玉砕が続出したため、兵員補充のため年齢を満1歳繰り下げた。それに筆者の世代が該当したもの。それまで現役兵の入隊準備期間は1ヵ月ほどあったものの、今度は10月1日入隊なので準備期間も短く驚いたしだい。
大あわてで職場や下宿を片付け、24日に高山へ帰った。それから町内や親類へのあいさつ回り。1番仲がよく親友だった金物屋の息子下本利夫君に会ったところ、彼にも召集令状が来ていた。27日には飛騨護国神社で、10月1日に入隊する若者たちの武運長久祈願祭が行われた。高山市関係の24名が集まり、おはらいを受けた。
9月30日朝町内の人たちに見送られて出発、鎮守の辻ヶ森三社で武運を祈り、高山駅へ向かった。途中子供たちが歌う軍歌や鼓笛隊の演奏などが、筆者の気持ちをより高ぶらせた。高山駅の広場は見送りの人でいっぱい。ばんざいの声と、つぎつぎに声をかけて下さる知人たちで、筆者もだれとあいさつしたのか分からなくなった。その日のうちに岐阜市美園町の福島旅館に入る。
10月1日気楽だったシヤバに別れをつげ、美濃町線で中部4部隊(歩兵68連隊の留守部隊)の錬兵場に集合した。なんでもこの日入隊するのは約1,000人だと週番の腕章をした伍長が話していた。人員調べのとき「チカシタ」「ドーシタ」「ドーゲ」など呼ばれたが、気付かなかった。最後に本籍を言われ、あわてて返事をした。「自分はミチシタであります」、するとその下士官は「読み方はどうでもよい。自分だと思ったらすぐ返事をせよ」と、しかられた。
どうしたわけか入隊者のうち25名が、破れた軍服、型のくずれた軍靴などが支給された。筆者もそのひとりであった。他の大多数は新品の軍装を支給された。うらやましく思っていると、周番士官の中尉が「諸子は野戦要員である。今回は正門から各中隊へ入ってもらう」と指示され、歩調をとって正門をくぐった。ボロ服組も後に続いた。同日の日記『今日より兵隊さんだ。聞きしに勝るところ』(以下『』の場合、日記引用)と記す。これは練兵場で使役に出ていた兵隊2人が上司にビンタをとられているのを見たためである。
10月1日から3日まで内務班ではお客さま扱い。理由は分からなかった。3日は午後から不動の姿勢とか敬礼の仕方などを教わった。初年兵係りの川島上等兵殿が君たちのめんどうを見る旨、あいさつをされた。君たちとはボロ軍服を支給された25名で、兵科は技術兵。本土決戦に備え、兵器の補給や修理を担当するとのこと。歩兵だと思っていただけに、内心ホッとした。
10月11日『シラ公ニマイッタ』シラ公とはシラミのこと。川島上等兵殿は、これは内務班になじんだ証拠と笑われた。同様にナンキン虫にも悩まされた。10月16日面会日。ネライは野戦上番(出動)の同僚たちのためのもの。筆者たちはそのおこぼれといえる。親姉妹ら顔をそろえた。母の作った『羊かんはうまかった。ぼた餅も』と、うれしかったことを短く記す。
10月19日防毒マスクを付けての教練、日野方面までかけ足。息苦しくて、脱落しそうになった。日野河原で大休止。川島上等兵殿の指示で、それぞれが好きな歌をうたう。筆者は「同期の桜」を披露した。帰隊夕食のとき、酒とスルメが出た。海軍が『台湾沖海戦』で大勝利をした、そのお祝いだとのこと。正しくは台湾沖航空戦で海軍が米航空母艦10隻、戦艦2隻を沈め大勝利を得たお祝いであった。このため勅語も出され、これで戦争は日本の勝利で終わると、筆者らは早合点した。戦後の調べで、この戦果は虚報と分かった。夜、野戦上番の同期の者たちが夜中に出発するので、面会を許可する旨連絡があった。まだ手をつけてないスルメを持ち、下本君の中隊へ走った。彼は身辺整理を済まし、同僚と雑談していた。営庭に出た彼と酒はないが別れのスルメを食べながら「死ぬなよ」「どんなことがあっても生きて会おう」と彼の手をにぎり別れた。この後いとこの数崎敏三君とも別れを告げた。
10月22日日曜日なので洗たく。午後から写真。25人全部の集合写真と単独のものを。川島上等兵殿が「お前らが兵営を逃げても、写真付きで指名手配できる」と笑われた。脱営した兵隊について話された。入隊前には本巣署、敗戦後は稲葉署に勤務されており、その辺の事情は詳しかった。脱営者といえば、10月いっぱいに3人あった。うち8日と9日の出来ごとは、筆者らも捜索に狩り出された。2人とも自殺で結着した。10月下旬にもう1人あったが、どうなったか記憶にない。
訓練は厳しかったが、休憩のときなど、会話がはずみ楽しかった。これも川島上等兵殿の人柄だと言えよう。訓練に出かけたとき、東中島の農家でさつま芋をふかしてもらった。14日と22日の2回で、その代金は徴集されなかった。10月24日、始めて奉給をもらった。6円50銭だった。そのとき上等兵殿は10円50銭、いかにも少ない。戦後奉給のことを知り、川島上等兵殿に申し訳けなく思った。
10月30日、われわれ技術兵に対し、31日付けで名古屋分遺の命令が出た。
中部4部隊みやま隊(7中隊)の技術兵たち。前列中央が川島上等兵殿。