ふるさと秘話 No.91
続・工場勤務の兵隊たち
エッセイスト 道下 淳
昭和19年(1944)の10月、筆者は1年繰り上げの教育召集で中部4部隊(岐阜歩兵68連隊の留守隊)に入隊した。1ヵ月の新兵教育の後、名古屋市に分遣、千種中隊を結成した。その日のうちに基幹要員となる兵隊たち約50名が顔をそろえた。数日後には、全国から11月入隊の新兵たちが集ってきた。いずれも技術兵ばかりで、任務は近くの名古屋造兵廠千種製造所で、兵器生産に協力することであった。
軍隊で同じ階級の場合、1回でも内務班の飯を多く食った者が古兵として処遇された。おかげで筆者ら「10月1日」兵は内務班長となり、数名の下士官が小隊長に就任した。中隊を結成した1ヵ月余りは基礎訓練ばかりだったが、やがて千種製造所の技術将校のスケジュールに合わせ、同製造所で銃器の教育を受けた。内容は戦場での修理が中心だった。
取り上げられた銃器は99式・38式歩兵銃、99式・11年式軽機関銃、92式重機関銃などであった。珍しい兵器として1,100式機関短銃 2.狙撃銃 3.ラテ銃などが取り上げられた。うち1は南方のジャングルでの戦闘に用いる自動小銃で、8ミリ口径の拳銃弾を使用した。銃床の左に弾倉(扇型)を取り付けたが、弾倉の交換性が悪く戦地でも不評だった。2は99式小銃に眼鏡を付け、相手をねらい撃ちにするもの。これも眼鏡の交換性がほとんどなかった。3.は99式小銃を円筒(実弾が入るところ)と銃身の部分で分離、小さくして落下傘降下の時扱い易いようにしたもの。パレンバン(インドネシア)の油田攻撃のとき成果をあげた。
雑用も多かった。中隊付きの准尉が結婚したので、その新居捜し。配給手続きから電気水道の手当てまで、筆者ひとりで行った。また内務班員を引率、工作機械を東濃丘陵地帯の地下工場に疎開させる作業にも加わった。さらに週2~3回、三河地方へ中隊の副食調達にも出かけた。これは直属上司の石川寿軍曹の担当。同軍曹に従い、三河地方の農協を回った。主食の米(ときには大豆も)などは師団から割り当てがあるが、副食物は不足勝ちになるため供出の要領で出してもらった。品物はネギ・ダイコン・菜っ葉・芋類であった。
12月の中ごろ、瑞浪市方面に何かの作業で出かけた。そのとき10人余りの中国人作業員を見た。頭はぼうぼう。南京袋に穴を明け、貫頭衣のように着て、荒ナワで結んでいた。また靴の代わりに、タイヤを切りぞうりのようにしたり、底が取れかけたのかヒモで巻いてそれぞれ歩いていた。すると土地の婦人らしい2人が看視人にかくれ、紙に包んだ品物を手渡した。ジャガ芋が転がり出たため、看視人に知られ取り上げられた。看視人は中国人に対し大声でどなり、ムチでたたいた。2人の婦人が抗義をしたが、「非国民」だと言ってきき入れなかった。この時瑞浪市でみた婦人たちの人間的な行為は、今でも胸の奥にはっきりと残っている。
昭和20年に入ると、中隊の仮兵舎はB29爆撃機の攻撃を受け全焼、無人の鉄道学校などに移った。それに千種製造所も爆撃を受け、損害を出していた。そのため同系列の鳥居松製造所(現春日井市)に移り、同所の鳥居松中隊と合流した。同中隊も千種中隊同様に、基幹要員のほとんどが10月1日兵で構成されていたので、すぐに打ち解け合うことが出来た。
このころ筆者は鳥居松製造所長 竜見南海雄(たつみなみを)大佐の当番を命じられた。当番兵は公用中の上司の身の回りを世話する兵隊で、靴磨きから執務室の整理、靴下やジュバンの洗濯、外出のお供などをした。今でいうお手伝さんのような存在であった。朝が早く夜は遅いので、内務班にいる時間が少なかった。しかし竜見大佐に従行していると、珍しい場所に立ち入ることが出来た。そのひとつに風船爆弾工場の見学がある。
この爆弾は和紙でつくった風船に爆弾を取りつけ、太平洋の偏西風に乗せて北米大陸を攻撃した。その風船は地元特産の和紙を、コンニャク糊で張り合せて作った。米大陸の直接攻撃ということで、軍部は大きな期待を持ったが、実際には山火事程度で終わった。風船の張り合わせを岐阜市柳津町にあった名古屋造兵廠の柳津製造所など、各製造所で行っていた。今ではこの新兵器?は忘れられているが、風船部分で袋物をつくり、おみやげにしたらどうか。戦後筆者はこれで財布・お守り袋バンドをつくった。乾燥したときは、霧吹きで戻した。
大佐のお供で、各務原の飛行連隊へ行ったことがある。会議が長びくためか、2時間の自由行動が許された。仕方なく近所をぶらぶらしていると、老夫婦に呼び止められた。南九州から飛行機を受け取りに、息子が来ているという。よく話を聞くと、特攻機の受領に来ているらしい。衛兵所まで出かけ連絡をとってもらった。やはりそうだった。うれし涙でほほをぬらす老夫婦は、衛兵に案内され息子のいる場所へ向った。何度も振り返り、見送る筆者におじぎをされた。
7月9日夜の岐阜空撃は、岐阜市街の8割近くを焼き、818人もの市民を犠牲にした。その翌々日、大佐のお供で岐阜市に入った。国鉄(JR)岐阜駅は焼け落ち、柳ヶ瀬も焼け野になっていた。丸物百貨店も煙を出していた。土蔵も火を吹き、神田町通りに並ぶ電柱まで火の粉を出しながらくすぶっていた。金神社付近の平和通では、焼けトタンに焼死者の遺体を乗せたのが目についた。公会堂は無事だったらしく、市役所の受け付け業務を行っていた。美江寺観音も楼門川本堂など焼け落ちていたが、国の重要文化財の11面観音は無事との張り紙が出ていた。
8月14日の昼ころ、鳥居松製造所本館ビルのすぐ外、和示良地区の水田に4.5トン爆弾2発(3発とも)が落とされた。筆者は本館1階にいたが、爆風で反対側の壁にたたき付けられ、肩にケガをした。後日これは模擬原子爆弾攻撃と分かり、命拾いをしたような気持になった。岐阜県内でも、同年7月24日大垣市高砂町の水門川左岸に落とされている。
15日は正午に天皇の重大放送があるとかで、その時間を待った。ラジオで話される天皇の声は雑音がひどく、内容がはっきりしなかった。終わって終戦のお言葉と分かり、くやしかった。『歴史的な日、よく泣けた日、ボッとして過ごした日、天は我に組しなかった。』(筆者の日記より)
竜見大佐の当番はその後も続き、9月21日にようやく下番となった。
結成間もない千種中隊の幹部(昭和19年11月)