ふるさと秘話 No.93
1枚の写真から
エッセイスト 道下 淳
戦前の写真のなかに、岐阜県庁ビルや岐阜市公会堂、岐阜市役所、岐阜商工会議所など岐阜市司町から美江寺付近の市街地を見降ろした珍しいものがある。官公庁以外の建て物は、ほとんど木造家屋であること。うち木造の大規模建築は、西別院とか工場群くらい。当時のたたずまいが想像でき興味深い。
写真からカメラの位置をまず、考えてみる。右下の屋根は権現山の時鐘堂辺だろうか。ここは県庁舎(現総合庁舎ビル)の東に当たるから、間違いなかろう。写真の時代を決めるには、新しい建て物の建築年代を調べるのが、手取り早い。写真左上のビルつまり市公会堂が、考えるヒントになる。
この建て物は昭和3年(1928)完工で、地上2階・地下1階の耐震建築のビルである。同20年7月9日連合軍のB29爆撃機により、岐阜市街の中・南部が全焼するなど大きな損害を受けた。このとき美江寺町一帯も焼け野原となったが、公会堂だけが無事であった。当時筆者は中部4部隊(歩兵68連隊の留守隊)に召集されており、岐阜市空襲の連絡を聞いて派遣先より帰隊していた。
上司の命令でまず駆け付けたのが、市役所であった。庁舎の外壁は残っていたが、内部は焼け煙が出ていた。柳ヶ瀬の丸物百貨店も同じように、内部が焼けていた。市職員は公会堂で配給事務をしていた。玄関先には、カマスが20俵ほど積み上げられていた。罹災者への特配だという。持ってみたところ、軽かった。内容について聞いたが、遠い昔のことで思い出せない。地下へ降りてみた。岐阜日日新聞社の輪転機が1台あったが、新聞を印刷したようすはなかった。1階も地下にも共通して言えることだが、男も女も「必勝」と記した日の丸鉢巻をしており、お互いに声をかけ合い、きびきびと行動していた。
今でも申しわけないと、思うことがある。それは玄関の車寄に、焼けトタンに乗せた空襲犠牲者の遺体が3体あった。市職員は配給事務などで忙しく、トラックで来ている筆者ら兵隊に、お寺まで運ぶよう頼まれた。そのつもりで荷台の空間を広げているとき、別行動をとっていた1個分隊(約14人)の兵隊が来た。下士官の分隊長の要求を断わることが出来ず、遺体運びを断わった。遺族らしい老女が、がっくりと肩を落していたことが忘れられない。
戦後の公会堂は収容人員も多かったせいか、各種の行事、催し物などに利用された。特に文化の殿堂として美術展・音楽会・芸能関係の公演が目立った。昭和28年の秋開演のドイツの声楽家ゲルハルト・ヒッシュの独唱会などは、筆者にとっても忘れられない。そこで歌われた「冬の旅」の何曲かが、青春の思い出として、今もはっきり脳裏に残っている。
公会堂の右に美江寺観音の本堂と森が、手前(東)に大門(楼門)が道にはみ出すように写る。菊人形シーズンになると、必ずこの楼門に「金門五三桐」の石川五右衛門の菊人形が飾られた。それが秋の風物詩となった。早春の「おかいこ祭り」は、もちろん春を告げる祭りで、養蚕の豊作を祈るもの。だが春だというのに、小雪がちらつくのが常であった。この日は近郊の農家は休日となった。この祭りについて、つぎのようなわらべ歌が残っている。生活習慣が大きく変化した現在、どの程度、知っている人があるだろうか。
美江寺まつりはかずけごと
飴やおこしを食いたさに
御園甘酒のみたさに
写真の右側の白いビルは司町の岐阜県庁舎で、大正13年(1924)に完工した。今の県総合庁舎ビルである。正面玄関にはすべて大理石が使われており、当時全国的な話題になった。また関東大震災の後だけに、耐震性を高めるため、内部の壁や柱などを補強した。設計の専門家が見ると、どことなくアンバランスなので解かるという。また屋上に塔屋を計画していたが、これも造らなかった。このように盛り上った耐震思想も戦争とそのあとに台頭したバブルにより、吹き飛んでしまった。
戦後本館3階の東半分が、占領軍の事務室になっていた。彼等はここで優雅な毎日を送っていた。時には街の女(パンパン)らしい女性を見かけたこともある。たしか3階東端に全国一老齢だった武藤嘉門知事の居室があった。記者会見のとき、この話が出た。武藤知事は笑いながら「泣く子と地頭には勝てない例えもありますので・・・・」と、笑われた。だが胸中は普通ではなかったのでは。
県庁の西にある3-4階建てのビルは県病院。その向うに西別院本堂の大屋根が見える。その上が長良川で、忠節橋もぼんやりながら写っている。
県庁のすぐ南(左)に木造2階建の洋式建築がある。これが県議会議事堂兼県物産館で、明治34年に建てられ、県内の木造洋式建築では最優美と言われた。正面玄関上にバルコニーがあり、屋根の塔屋は時計台になっていた。掲載写真にも、それが写し出されている。物産館は1階で展示と即売をした。議事堂には図書室も設けられ、やがてこれが核になり、県立図書館が生まれる。
左にあるのが岐阜市役所と商工会議所。今の長良橋通りは、すぐ手前を走っている。なお公会堂辺に民家がないのは、刑務所が長良地区に移転したため。やがて美江寺公園(現在の裁判所付近)などが登場する。
写真は昭和初年の岐阜市街。県庁から岐阜市役所まで。