ふるさと秘話
中部4部隊での生活
エッセイスト 道下 淳
太平洋戦争が終わって、今年で65年たった。先日岐阜市内の中学校へ所用で出かけたとき、校庭で雑談をしているグループを見つけた。話の中に割り込んで、戦争のことを聞いてみた。原子爆弾や戦艦「大和」のこと、岐阜空襲などのことは、知識として知っていた。しかし多くの県人たちが太平洋の島や大陸で、国を守るため犠牲になられたことなど、ほとんど知らなかった。最近戦争の悲惨さを次の世代に伝えようといった動きが、広がりつつある。筆者の軍隊時代は内地勤務ばかりだったが、それでも不合理なことが多く、現在でもときどき夢に見る。以下、軍隊生活あれこれ。
昭和19年(1944)8月、召集令状が届いた。「現役兵ニ徴集シ左ノ通入営ヲ命ス」として、10月1日午前9時に岐阜市長森の中部4部隊(歩兵68連隊の留守隊)に出頭せよという内容だった。召集令状は赤紙だと思っていたが、これは白紙であった。
そのころ日本軍はアメリカなど連合軍を相手に、血みどろの戦いを続けていた。連合軍は軍事的要地であれば惜しみなく大部隊を投入して占領した。それによって、日本の守備隊が玉砕(全滅)した。兵力不足を補うため軍部はやむなく徴兵年齢を19歳に下げ、また兵役義務年齢を45歳にまで引き上げた。それに始めて該当したのが筆者の世代。大正14年(1925)組だった。
入隊当日は約1,000人の青年が練兵場に集合、まず点呼があった。姓名を読み上げるのである。いつまでたっても呼ばれない。最後に本籍地を呼ばれたので、筆者のことだと分かった。そのときの呼び方は「ドーゲ」「ドーシタ」で、ミチシタはなかった。読み方が違うと苦情を言った。すると週番下士官が「違っていても、自分らしいと思ったら、すぐ返事をせよ」と、逆に叱られた。軍服支給が始まった。新品の冬服、それにブタ皮ゴム底だったがこれも新品の軍靴が支給された。ところが最後になった筆者ら数人に対しては、大正12年(1923)製などの破れのある軍服に牛皮ながら型の崩れた軍靴、かかとがつぶれスリッパ状の営内靴などが支給された。ボロ服に営内靴ひょっとしたら、4部隊に残るかもしれないと思った。週番士官が「諸子らは近く野戦(戦場)に出かけるので、本日は特に正門から入る」と語った。
第7中隊に数人の同期の者が配属された。うち筆者は1班であった。当日の内務班では、初年兵をお客様扱いにした。故郷に手紙を書いたり、私物の整理などで終わった。筆者は支給された軍服の破れをつくろった。それを見た班付きの兵長が、中隊の被服係に交渉、詰め襟りながら少しは程度のよい軍服と交換してくれた。この人たしか五十川兵長と呼んだが、このときの喜びは今でも忘れない。
夕食のおかずにイワシの煮付けが、2匹づつ出された。一応尾頭付きであった。翌日から厳しい教練が始まった。古年兵が大八車やリヤカーに乗り、初年兵に引っぱらせる。これは米軍の戦車に見たてたもので、それをめがけて破甲爆雷を持った初年兵が飛び込むという訓練。筆者は対戦車砲でやっつければと思った。後で古兵が語った。「日本にはもう対戦車砲がなく、旧式の速射砲を使っているのだ」と。どうりでノモンハンの戦い(1939)で、戦車のため敗退したことに納得した。
訓練から帰ると、内務班でビンタが飛ぶ。そんなとき初年兵係の川島上等兵が、集合の号令をかけ、筆者らを営庭に連れ出した。そうすることにより鉄拳制裁から逃れられた。制裁でもユーモラスなものもあった。軍靴の手入れ不良の兵は軍靴を首にかけたり、ヒモをくわえ中隊の内務班を回り注意されたことを報告する。「ウグイスの谷渡り」と称し、内務班のベットの上をウグイスの鳴きまねをしながら許しが出るまで。また柱に登りいろいろなセミの鳴きまねをすることなどをやらされた。これが天皇の指揮下にある皇軍だと思うと、情けなくなった。
内務班内では盗難がよくあった。私物品は盗まれなかったが、下着類や靴など官給品はよく盗まれた。これは支給された物品と数を合わせる「員数合わせ」のためであった。同僚の略帽が無くなったとき、それを知った古兵がすぐ都合してきた。よその中隊から失敬したと語った。そんなわけで中隊の物干場は、いつもねらわれていた。干し物のあるときは、必ず初年兵が監視についた。監視のためせっかくの休日が、よくつぶれた。
軍隊の食事は、民間よりは良かったが、それでもひどいものであった。ご飯の中に大豆、ヒジキ、芋、干し大根が入っているのは普通で、ときには油をしぼった豆粕が入っていたこともある。そのため初年兵は、いつも空腹だった。休憩時間などは、ぼたもち、ようかんなど甘い食べ物の話でもちきりだった。そんなとき川島上等兵は初年兵を引率、芥見方面へ出かけた。ある農家に飛び込んで、さつま芋を買い、大釜を借りてさつま芋を煮られた。空き腹の初年兵に食べさせるためであった。終わって釜の底のアメ状のものをなめた。甘かったことを、今でも覚えている。こんなことが2回あったが、川島上等兵は芋代を自分が負担、われわれから集めようとされなかった。
10月中旬ころ、他の中隊から初年兵が脱走した。夜のことで、筆者らも高山線長森駅方面を捜した。懐中電灯が数人に1個。これではじゅうぶん捜すことが出来なかった。後日この兵隊は故郷に近い峠で、自殺していたことを聞いた。
そのころ、新しい軍服を受領したグループ約1,000人が深夜ひっそりと兵営を出て、戦場に向かった。親友の下本利夫君もそのひとりだった。今夜出発と聞き筆者は上司の許可を受け、面会に行った。手を握りながら「絶対死ぬなよ」と誓い合った。だがこれが、最後の別れとなった。下本君は中国南部の戦場で散ったことを、戦後知った。
中部4部隊の洗たく場。休日は上官のものまで洗うため、初年兵にとり忙しかった。