青山支部「市民公開講演会」が開催されました。
2017.06.22
演 題 『関ヶ原合戦こぼれ話』
講 師 関ヶ原文化財保存審議会 委員長 高木優栄 氏
6月22日(木)午前10時より12時まで鷺山公民館において青山支部「市民公開講演会」が開催されました。
今回は関ヶ原文化財保存審議会委員長の高木優栄氏をお招きして「関ヶ原合戦こぼれ話」と題し講演いただき、今までの習ってきた歴史はもちろん合戦当時から先祖が当地に住み着いている住人の立場から、お話をしていただきました。
さて、関ヶ原合戦の起こりからの話で、現代に置き換えれば保守党三成派と革新等家康派のせめぎあいから起きた覇権争奪戦です。西軍84,000、東軍74,000で合戦が始まりました。現代なら議論で解決する方法もあるがこのころは武力で主張しあうしかなかったそうです。
合戦前の村の様子
合戦は旧暦9月15日(新暦10月21日)午前8時に火ぶたが切られ、それまでの戦は何々川の戦い、何々ヶ原の戦いと言われているため関ケ原を訪ねてくる人は現地に来て狭い土地にびっくりされるそうです。
関ヶ原村山中という場所では三成の要請により宇喜多、大谷吉継(吉隆)の陣の構築の支援を要請され(要請文書のコピーを見せていただいたがこれは、後年記憶をたどり複製したもので、三成方に味方をしたことが後でわかれば徳川方から罰則を受けるため)、これはなぜか近江の石田村(三成の生地)と山中は昔より交流があったためではないかとのことです。構築作業後、村人は山の中へ合戦が終わるまで避難したそうです。
又,黒野城主の加藤貞恭公は1594年から1610年まで4万石の城主、その後米子6万石6年間、大洲6万石6年間以後明治維新まで続く。但し文献によって異説あり)は徳川方の黒田、竹中重門(竹中半兵衛の子)とともに戦う、足軽、雑兵は100石に対し3人が徴用されるそうです。
戦い終わって、家康は関ケ原村に1,000石(米250俵)扶持を与えて近江に出立。戦いでは12,000人程の死者が出たが近年決戦の地の一部を発掘したが、刀剣、槍、鉄砲、などは発見されず村人が持ち去ったのではないかとか、埋めたのではないかとの話があるが後年確認したところ各地を回り戦死者から盗み取る集団がいたのではないかと推測されるそうです。
又、三成の地元では先祖の墓などは徹底的に破壊されたそうです。後年復元されました。
そして生活環境が払しょくされたかと感じられたころには100年が経過していました。
武将をして乙女心を打つものもあるらしい、例えば大谷吉継の生きざまに惚れて(三成との友情、武将魂等)ファンの若い女性が墓の前に花を手向けたり、一日じゅう墓前にたたずんだり、バレンタインチョコを捧げたり、<吉継=恋人>と言う女性で絶えないそうです。
終わりに余興でハーモニカ演奏により「丘を越えて」を聞かせていただき閉会となりました。
講師の高木優栄氏 | 市民公開講演会の様子 |
高木優栄氏のハーモニカ演奏 |